仕事終わり。
少し飲んで帰ろうかと、行きつけのバーに足を踏み入れた瞬間。
いつもの そこには あるはずのない華やいだ空気に、
ヒューズは 入り口で 足を止めた。
いつものように 静けさに包まれた クラシカルな装いの店内に
いつもと違う 明るさがあった。
くるりと見回した店内。
目に留まったのは、カウンターに座る 一人の青年。
この慣れぬ雰囲気は、静かにグラスを口に運ぶ 彼から発せられている。
「やあ、いらっしゃい。」
入り口に突っ立ったまま 彼を見つめるヒューズに、
マスターが 穏やかな笑みと共に 促す言葉を投げかける。
「お、おう。いつもの な。」
「かしこまりました。」
改まるでなく言ったマスターに、
今度は視線で促され、まだ空いているカウンター席へと足を進める。
「ここ、いい?」
他にも いくつか空いている椅子はあったが、
ヒューズは 彼の隣の椅子を指し 声をかけた。
「ええ、どうぞ。」
答えた声は柔らかく ヒューズの耳を擽る。
その顔に浮かぶ笑顔は、社交辞令的なものなのだろうが、
ヒューズには それが、とても甘いものに見えた。
つきり と 心臓が小さく痛みを訴えた。それは ひどく甘い…。
(おいおい…何だってんだ…?)
丁度 差し出されたグラスを、ヒューズは勢いよく呷った。
くっと 喉に染みるアルコールの感触は
不思議な痛みを伴う快となって全身に行き渡る。
それは 胸に湧いた小さな痛みを飲み込み、その甘さを掻き消した。
「っっ…はーっ」
染みるアルコールに 詰めていた息を吐き出すと、
マスターに お替りを注文する。
と、隣から くすくすと 笑う気配がした。
「ん?」
「無茶な飲み方 するんですね。」
「そ?」
「ええ。」
静かに、けれども するすると自分のグラスを空けていく彼の
そのふわりとした笑みも、涼やかな声も、酔いの気配を見せてはいない。
その笑いと言葉が 酔いからくるものではないとしたら、
普通は余計なお世話だと 切って捨てるところなのだが、
彼のそれは 何故か不快ではなかった。
「君は、綺麗に飲むんだな。」
「へ…?」
「あ、いや…」
つい 零れた感想は、ひどく気恥ずかしいものだ。
(何 言っちまってんだ 俺は…)
ロイじゃあるまいし と ヒューズが、酒のせいでなく顔が熱くなるのを
感じていると、彼は また ふわっと笑った。
「面白い人ですね、中佐さんは。」
「へ?何で…」
今 自分は私服で、それとわかるような物は
何も身に着けてはいない。
「昼間、この近くで 窃盗犯捕まえてた。」
「ああ…」
確かに 今日はそんなこともあった。
「見てたのか?」
「ええ。格好よかったですよ、ヒューズ中佐。」
「名前も?」
「憲兵さんが 呼んでましたから。」
それだけで 覚えていられるものではないはずだ。
顔ならともかく、そう何度も呼ばれた覚えの無い名前など…
「…覚えてるもんなのか?」
「だから、格好良かったんですって。」
くすくすと笑う彼は、相変わらず 静かにグラスを傾けている。
「なぁ、俺は 口説かれてんのか?」
「そんなの付けてて、何言ってるんですか。」
それ、と彼が指差したのは ヒューズの左手。
薬指に納まっているシンプルな指輪。
「あ…」
ふと それに目を落とし、ヒューズは 困惑を 僅かに顔に出した。
いつもなら、初対面だろうが 真っ先にするはずの娘自慢を
していないことも 困惑に拍車をかける。
彼の纏う空気の心地良さに、それだけに浸ることを
ヒューズが 無意識に望んだ結果だった。
「そういえば…君、名前は?」
少し 気まずさを覚えつつ、それを紛らわすように ヒューズは尋ねた。
「聞いてどうするんです?」
「え。あー…」
どうするって…どうするよ。と、ヒューズが独り語ちていると、
彼は また笑った。
「」
「へ?」
「僕の名前。・」
あっさりと そう告げられて、ヒューズは 自分が からかわれたことを知る。
「お、お前なぁ!」
一瞬 真剣に考えた自分が ばかみたいじゃないかと声を上げるヒューズに
は、くつくつと 笑っている。
「やっぱり 面白い人ですね。ヒューズさん。」
「ったく…」
溜め息 一つと共に マスターに お替りを注文し、
ヒューズは ふと の手元のグラスを見た。
「何 飲んでるんだ?」
静かに飲んでいるとはいえ、そのピッチは 決して遅くはなく、
先程から何度か お替りを頼んでいるが、
顔色一つ変えていないところを見ると、あまり強い酒ではないのだろうと
何気なく聞いたのだが。
「ウォッカ・マティーニ です。」
返ってきたのは かなり強い酒の名前で。
「うっそん…」
「僕、強いんですよ。」
「強いっつーか…」
有り得ねぇよと 呟くヒューズは、しかし この やたら酒に強い綺麗な青年に
魅かれて已まない自分を 妙に冷静に自覚していった。
「ヒューズさんも、強いんじゃないですか?」
にっこり笑って言うは、ヒューズの手に収まっている
そのグラスの中身が、それなりに強い酒だということを見抜いている。
「お前…不思議な奴だな。」
「。」
「へ?」
「折角 教えたんだから、呼んでくださいよ。」
『お前』じゃなくて、と言う彼は やはり笑っていて、
「わかったよ。」
呼べば その笑みは、ゆるりと 柔らかく揺れた。
「ほんとに、不思議な奴だな」
「そうですか?」
「そうですよ。」
ヒューズは 少し拗ねたように そう言って グラスを傾ける。
自分を捕らえている感覚が何なのか わからないまま、
ただ この不思議と心地良い空気に、仕事の疲れごと埋没していくことが
ひどく幸せなことのように思えて、ヒューズは ほっと息を吐いた。
それから しばらく 杯を重ね、談笑して。
和やかな時は あっという間に過ぎた。
「ああ、そろそろ行かなくちゃ。」
ふと が 時計を見て そう言った。
「何か、用事でも?」
できれば もう少し の纏う雰囲気の
グレイシアがくれる温かさとも、エリシアがくれる可愛い癒しとも違う、
凛とした安らぎの中にいたいと、ヒューズは 無意識に
何か引き止める言葉を探す。
「ええ。用事、というか…」
の笑みが、微苦笑の それに歪められ、
彼の 男にしては ほっそりとした指が、
空になったグラスを コトリと カウンターに置いた。
「今夜、ここを離れるんですよ。」
「へ?」
「実は僕、旅人って やつでして。」
今夜の最終列車で 東へ向かうのだと、
は この静かな時間の 終わりを教えた。
連れ立って 店を出た二人を包む夜の空気は、
ほろ酔いの身体に 冷たく心地良い。
「また、来るのか?」
「え?」
「ここに」
中央に、と 聞くヒューズの声は静かだ。
「さあ…どうでしょうね。」
そして、答えるの声も、澄んだ空気に 溶けるように淡い。
「僕、行き先って 決めたこと ないんですよ。」
笑顔を向けるの視線が ヒューズの それに絡む。
と、ヒューズは、唇に 温かいものを感じ、それが何であるか 確認する前に
至近距離にある の睫毛の長さに気付く。
柔らかく 触れて離れたそれに、キスをされたのだと知る頃には、
は ヒューズから身を離し、歩き出していた。
「!」
はっと我に返って ヒューズが叫ぶと、
くるりと振り返ったは、にっこりと笑った。
今までの笑みとは少し違う、艶やかさを含んだそれは、
澄んだ夜空に浮かぶ月に照らされ、儚げで、しかし ひどく印象的だった。
「さよなら、ヒューズさん!」
今まで、静かにしか話さなかったが 張り上げた声は、
澄んだ空気に 凛と溶けた。
「…」
すっと 自分に背を向け、再び歩き出すに、
「元気で!」
そう声をかければ、もう一度、今度は足を止めずにヒューズを振り返った彼は、
あなたも、と 微かに聞き取れるくらいの声で言って 笑った。
ヒューズも、笑った。
笑って、手を振る。
さよなら、と。
そうしながら ヒューズは、ぼんやりと輪郭の見えてきた その感情に気付いた。
ずっと、彼に出会ってから 胸中を巡っていた想い。
それは 淡い 恋だったのかもしれない、と。
グレイシアへ向ける愛とも、ロイに向ける信頼とも違う、その感情は…。
上げていた腕を下ろし、遠ざかるの背に向けて、小さく口を動かす。
音には ならなかった その言葉を、自分の心深く沈めて。
を見送ることなく、ヒューズも 踵を返し、歩き出した。
家族の待つ 我が家へ向けて。
〜End〜
あとがき
ラブストーリー…というリクエストに応えられているのか
多々不安ながら、ほろ苦い甘さを目指してみました。
(どの辺りが苦くて甘いのかって 突っ込みは無しの方向で・笑)
拙文ですが、楽しんで頂けましたら幸い。
相互リンク、ありがとうございました。
これからも よろしくお願い致します。